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「里山の小さな家」ある建築主からのレポート 報告者/井戸道也

4.失われた民家                          写真   図面 

1. 概要
(1) 地形
(2) 配置と間取り 
(3) こもる−ひらく 
(4) 室内環境

2. 気候

3.美濃の民家−起源と形成
(1) 配置と間取り 
(2) 構造 
(3)家の形成と暮らし

4.失われた民家
(1)生活の変化 
(2)悪くなった住宅

5.自分で設計する
(1)思い通りの家? 
(2)暮らしかたを構想する

6.要件を固める
(1)断熱が生命線 
(2)小さく 
(3)低く 
(4)陽を入れる、さえぎる 
(5)素材とデザイン 
(6)東海地震に備える

7.愛和登場
(1)相見積り 
(2)板頭社長 
(3)カネダイ 
(4)2つの実験

8.契約・着工・上棟

9.白川大工・今井さん

10.仕上げ

11.完成・見学会

12.冬
(1)背中があたたかい 
(2)結露ゼロ!

13.春〜夏
(1)春 
(2)夏

14.1年経過
(1)床材ラオス松 
(2)樋から雨漏り! 
(3)電気料金 
(4)ショック! 畳に青カビ

15.そのほか
(1)新築費用 
(2)優良工務店を探す 
(3)家相

16.終わりに


(1)生活の変化

 村落共同体のくらしと美濃の民家は、昭和40年代から50年代のあいだにほとんど姿を消しました。生家の集落は平成16年現在37戸ですが、古いままの民家は、茅葺にそのままトタンをかぶせて1軒が残っているだけです。
 美濃の民家を消滅させたトリガーは伊勢湾台風と第2室戸台風でした。壊れなかった家もひどく痛み、長く使うことは困難になりました。結局建て替えるしかなかったのですが、昔の民家は再現されませんでした。
 原因は生活の変化。
誕生と死の舞台、婚礼の舞台、労働の場、育児の場。人生の節目と生産の場所として長いあいだ家が担ってきた枢要な機能の大半が、家から外へ出たのです。
 燃料が薪からガスに替わったことも、家のありようと里山の中を大きく変えました。

 人々は自給経済から貨幣経済に適応するため兼業農家に生活の態様を変えました。僻地では過疎と荒廃がすすみましたが,美濃加茂市は大都市圏近郊なので過疎から免れ、つい4kmほど近くまで、名古屋への通勤も視野に入れた住宅団地が造成される環境になりました。幸い今のところ、生家の周辺は近郊の里山といった環境をのこしています。
 半農の暮らしは都市のサラリーマンにくらべて収入の絶対額は少ないものの、野菜と穀類が自給できるので、可処分所得は相対的に多く、豊かとまではいえなくても、美濃の人々はすこしゆとりある生活を手に入れました。
 貨幣経済化の進展につれ、20年ほどの間にほとんどの家が建て替えられ、風景も一変しました。


(2)悪くなった住宅

  さて、建て替えられた奇妙な家、部分的に昔より悪くなってしまった家を概観してみましょう。それは以下のようなものです。

 南側に8畳の和室が2部屋隣接する間取りと縁側をのこし、土間を床に変えてここにやたら広い玄関、ホール、キッチン、食堂兼居間をつくり、トイレと浴室を戸外から室内に移しました。大半は2階建になり、建具をアルミサッシに、屋根を茅葺から入母屋の瓦葺きに変えました。この結果、延床面積は60坪〜70坪にもなり、これに別棟の「はなれ」が有り、庭もしつらえて立派な構えのお屋敷になりました。

 古い民家の欠点は、部屋を通らなければ次の部屋へ行けないことで、現実面で個室がないことでした。改善策として玄関ホールと中廊下を介して部屋間を往来する間取りができたのですが、このためホールと中廊下、縁側、玄関、階段室などの「通路」が全面積の30%近くを占めることになりました。トイレも浴室も洗面所も廊下を経由していくのです。家が過剰に大きくなった理由です。おまけに南側の座敷2部屋は仏間兼客間としてあけておくので、人の居場所はあいかわらず暗くて居心地の悪い北側のままです。
 無駄の過剰と居場所の過少が生じました。土間と吹き抜けを無くしたので空間が貧弱になりました。

 建築主も工務店も本質的な考察と工夫を加えず、ただ大きいだけの家を建てています。大黒柱や床柱,玄関のあがり框などに銘木をあさり,法外なお金をかけて自慢しあう風潮が生まれました。
 これだけなら不経済ですみますが、深刻に悪化したのがVOCの充満する空気環境でした。最悪の材料で室内空間を囲ったのです。猛毒の薬品漬け土台、化学糊で貼ったビニールクロス、接着剤で固めた合板類、有機溶剤の塗料。
 加えて屋根の断熱性能、室内の通気性能と調湿性能が悪化しました。また土間を無くしたことは、夏の暑さを助長しました。これらの性能は、住宅の要素でもっとも肝心なものです。
 夏はエアコン無しで暮らせないようになり、冬は石油ストーブにやかんをかけて局所暖房するので激しい結露が生じ、ダニ、カビの温床になります。夏も冬も建具を閉めきるので炭酸ガスとVOCで汚染された空気が滞留します。

 構造の危険もむしろ大きくなりました。
 2階建てになって重心が高くなり、屋根も重くなり、不安定が増大しました。南側は1、2階ともほぼ全面が窓なのでとても弱く、大きな壁量アンバランスを生じました。
壁量のアンバランスは、地震の時に家を振りまわす力として働きます。また、不用意にスジカイを入れるから、一定の震度を超えた外力が働くと、スジカイが柱を引き抜き、家を壊す力として働きます。耐震性は耐力面材で確保したほうが安全です。

 さて、伊勢湾台風から数年を経て、茅葺の家を解体し、父があたらしい家を建てました。中規模の平屋でしたが、このような欠点をすべて備え、台風にこりて東向きに建てたので日当りと風通しが悪化しました。風呂場とトイレは、あいかわらず戸外。

 わたしは結婚して愛知県犬山市のマンションで暮らし、父母がこの家で暮らしました。築後10年で父が他界し、その後母が一人暮らしのおだやかな老後を送って2003年に80歳になりました。毎日畠へ出て野菜栽培を楽しんでいますが、足腰の衰えが目立ち、危険が増したこともあり、自分の定年も数年後にせまったので、第二の人生の住居としてあたらしい家を建てることにしました。

 わたしはこの家を自分で設計しました。建築は素人ですが、むかしの美濃の民家がとてもシンプルで、ほとんど素人によって維持された現実を見ていたし、少年時代にこれを手伝った経験もありました。また趣味の焼き物、窯の小屋を3回自分で建てた(台風で2回飛んだので3回目!)経験があり、これが自分でやることの楽しさを教えてくれました。面白半分でゆっくりやれば知的快楽が2年も3年も続きます。
 少しだけ有利だったのは、わたしが機械系のエンジニアで図面を見なれており、材料力学の知見があるので、理科系からのアプローチが比較的容易だったことでしょうか。でもこんなのは中学の理数程度でオツリのレベル。住宅の設計は素人でできます。


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